太田市議会 2020-12-02 令和 2年12月定例会−12月02日-03号
また、戦時中、中島飛行機製作所に動員されていた小諸の人たちと地元の方々で荒れ寺の仏光寺を整備されたと聞いています。境内には源次兵衛の石碑やモニュメントが、寺には小さな呑龍上人像のレプリカが安置されております。 さらに、9月の開山忌には小諸市の物産展も呑龍様境内で開催され、逆に太田焼きそばも小諸のイベントに参加していたのです。
また、戦時中、中島飛行機製作所に動員されていた小諸の人たちと地元の方々で荒れ寺の仏光寺を整備されたと聞いています。境内には源次兵衛の石碑やモニュメントが、寺には小さな呑龍上人像のレプリカが安置されております。 さらに、9月の開山忌には小諸市の物産展も呑龍様境内で開催され、逆に太田焼きそばも小諸のイベントに参加していたのです。
現SUBARUの前身でもあります中島飛行機製作所、幻の爆撃機、富嶽、20トンの爆弾を搭載し、あのB29の1.5倍の大きさ、両翼65メートル、実に400機製造の予定であったわけであります。そしてまた富嶽を飛ばそう会発足から21年がたちました。幻の爆撃機、富嶽の一般公開と展示、そしてまた膨大な数の中島飛行機製作所の現存する資料を太田市民の皆様にその勇姿を見ていただく展示できる場所を模索しております。
新田郡の太田町で中島飛行機製作所創設102工場、2,500の関連企業、14カ所の地下工場、そしてまた従業員数が26万1,354人、そしてまた当初から鉄が不足するということで、北海道の千歳鉱山、そしてまた宮崎県延岡市の岩戸鉱山をも擁し、中島知久平翁、私たちの市民の偉大な人物への誇りであり、宝でもあると思います。
明治45年6月に海軍大学を卒業すると、飛行機製作と整備技術研究のためアメリカに出張し、滞米中に飛行士免状を取得しました。大正3年(1914年)1月に航空界視察のため、フランスに出張しました。帰国後、日本の民間で飛行機製作の必要を痛感し、大正6年5月に尾島町前小屋の岡田権平家の養蚕小屋に飛行機研究所を創設しました。海軍退官願が聞き届けられ、同年12月、予備役に編入されました。
戦時情勢、行政職権特例のもと、飛行機こそが国防の要諦、126種類の飛行機製造、2万6,000機から3万機とも、爆撃から旅客機、ジェット機まで、従業員25万人有余の中島飛行機製作所がありました。67社の系列会社、そして十大財閥の1つ、くしくも戦後、財閥解体が行使され、中島飛行機は12の会社に分割されました。GHQの自動車生産解除前の昭和23年、既に車の生産が始まっておったわけであります。
その中で太田焼きそばは非常にメジャーでございますが、中島飛行機製作所の時代より簡単に食することができるという形で食材としての多くの意義がありまして、焼きそばが地域に広まったということを伺っております。多くの人々に愛食された経緯があります。最近では、やや手詰まり感があるかなという私の実感でございますが、先につないでいかなくてはなりません。
太田市の水道事業の経緯は、当時、太田町で中島知久平氏が創設した中島飛行機製作所の航空機産業の発展による工員の人口増加に伴う上水道計画により、戦時下であった昭和12年、軍事産業用水として政府に申請し、特例として町民待望の上水道が昭和14年9月から始まりまして、首都圏整備法のもとで昭和47年4月、尾島町との水源が合意され、本年9月で78年という長い歴史がございます。
◆委員(高橋美博) 8月15日の朝日新聞によれば、旧中島飛行機製作所の関係から、終戦間際に米軍による爆撃が頻繁に行われたようであります。その結果、本市において不発弾が残されているということのようであります。 そこで、その報道された内容について危機管理室長にお尋ねいたしますが、割愛だなんて言わずに、せめて報道された内容だけでも十二分に説明していただけたらと思います。
◆委員(市川隆康) この公園内には中島飛行機製作所時代の地下工場跡があるかと思いますが、その地上部分を含めて未整備になっておりますが、今後墓地として造成する考えがあるのか伺います。 ◎花と緑の推進課長(野口完治) 中島飛行機の地下工場跡につきましては、平成13年に探査業務を委託しまして、電気探査というのを実施してございます。
中島知久平飛行機製作所におきましては、従業員が3名から、学徒動員も含めまして成長し、26万人のマンモス会社と成長したわけであります。実に67社の系列会社を擁し、まさに日本の14大財閥の1つにも上り、現存する太田市、そして近郊への自動車産業、重電、白物家電産業の礎をつくった重大な人物でもあります。後の町長経験者の父を持つ、そしてまた、母と明治17年1月11日に尾島町押切で生まれました。
私が説明するまでもなく、太田市における近代化にとって中島飛行機製作所が果たした功績は非常に大きく、これは太田市だけではなく日本の近代化に大きく貢献したと言っても過言ではありません。さて、その中島飛行機製作所の前身であります飛行機研究所が大光院の東にあった洋館を利用して開設されたと聞いておりますが、その洋館の部材、玄関とか、らせん階段、手すり等が現在も保管されていることを最近知りました。
同年12月には太田町の大光院東に移って飛行機製作を行い、さらに昭和9年には現在の富士重工業群馬製作所本工場の位置に新工場を完成させました。その後各地に生産工場を増設して一式戦闘機「隼」や日本の最優秀戦闘機とうたわれました「疾風」など、第二次世界大戦で活躍した名機を数多く生み出しました。
また、当地区は、中島飛行機製作所時代の住宅ということで住宅の老朽化が進み、あわせて住民の高齢化、独居化が進み、火災発生時には大火となることも予想されるわけであります。また、消火時の水圧強化による配水管の破裂も危惧されておるところであります。そこで、当地区における配水管の布設替えの状況についてお聞きいたします。また、由良地区においてもあわせてお聞きいたします。